赤い花
もう半世紀も前のこと 小学生の高学年のころ
たまたま庭に私と母とふたり
母が
見てみいな 木瓜(ぼけ)がきれいに咲いとるがな
例えば椿 深い緑の葉の中に真っ赤な花 そばまで行けば形がわかる 形がわかって葉と花を判別できる そのあと色が違うことを脳が理解する そんな順序 けれど離れたら緑一色
私はちょいとばかり赤と緑が判りづらい なぜそうなのかその遺伝的なメカニズムを詳しく知るのはもっとあとのこと だけどそのころは私は自分の目のことを知っていた そして母がそのことをひどく気にしていて自分を責めるようなことも口にするもんだから
どうやらこれはおかあちゃんのせい とうっすら感じていた だから目や色の話は母親の前ではしてはいけないと思っていた 困ったそぶりもましてや恨みがましいことも 母親の前では言わない もうそれは絶対に と強く心に思っていた
ほんとはちょっと不便していた 写生のときなどどれにどの絵の具を使えばいいのかさっぱり 身体検査の色覚検査で私だけが数字が読めなかったりみんなが読めないのに私だけ大きな声で得意気に読み上げて恥ずかしかったり あとで知ったことをざっくり要約すれば
その因子は母親が持ち一定の確率で男の子どもに症状が出る・・・遺伝の事だから母親に責任はないけれど母親はやっぱり責任を感じるのだろうし その知識を得てからは尚更におかあちゃんの前では絶対言わないと それはもう死んでも口にしないと決めた
そして あの時の庭
見てみいな 木瓜がきれいに咲いとるがな
私はうっかり ほんとにうっかり
なんでよ 葉っぱばっかりやんか
そう言ったあとで うん? ほんまは咲いてるんか? と思い
歩み寄って形がわかったらほんとに真っ赤な花
しまった と思った 聞こえたやろか 聞こえたやろなと思いながら
無理やり明るく たぶんそれはわざとらしく
ほんまや きれいに咲いとるなぁ
こんな一瞬のやりとりを50年経ってもまざまざと覚えている
こんなに時間が過ぎても忘れられないのが私は辛い
ほんまや きれいやなぁ と振り返ったけれど
うまくごまかせてないことはわかっていた
葉っぱしか見えなかった私 そして そうと知っていながら不用意なことを言った母 子ども心に私は私を責め 母も あぁそうか この子はそうやったなと思ったに違いない
そのときの母親の顔 泣いてるような笑ってるような
すぐに向こうを向いて行ってしまったけれど
あのときのあの一瞬の母親の顔
語彙の乏しいあの頃から50年
今知ってる言葉で表せば
謝罪 後悔 自責 憐憫・・・
もっとある いっぱいある
おそらくそのどれも正しく
どれほど用いても表しきれない
6年前 ひょんないきさつから母親と半年暮らした
あずきは膝の上が大好きだった
娘は嫌な顔ひとつ見せなかった
妻は甲斐甲斐しく世話をしてくれた
私は母親と暮らせてただ嬉しかった



私はこの人のお腹から生まれた 育ててもらった
大事にされた 愛されたという実感が確かにある
笑顔は優しかった 怒ったら怖かった 働き者だった 親父とよく喧嘩をしていた ふたりでしょっちゅうドライブに行ってた 目が覚めて朝刊運びを理由に障子を開けたら ここおいでと布団を上げてくれてクスクスと潜り込んだ母親の胸は温かかった 長男が生まれたときも次男のときも親父とふたり病院へ飛んできてくれた 娘のときはてっきり今度も男の子と誰もが思っていたからびっくりしながらそれは喜んでくれた やがて
私は仕事に妻は育児に追われ自分たちのことでいっぱいいっぱい 親のことどころではなく ようやくそろそろと思ったときに親父が・・・
子どもたちには常々言っている 親のことなんか気にせんでええ 親に返そうなんて思わんでええ 親からしてもらったことを子どもにしてやんなさい ワシらはそれでええ それで充分
それはそう思う 心底思う 子どもの迷惑になるくらいなら姥捨て山に身を投げる けれど私は・・・私はそうはいかない 母親のことをそうは思えない 早くに家を出た気楽な次男のくせして 大した親孝行などなんにもしてこなかったくせして 気持ちだけはそう思う
ときどき
立ち止まって省みる 私はどうだろうか
恩返しとか親孝行とか どうなんだろうかと
都合よく言い訳にして逃げてはいなかったかと
いつになってもいくつになっても
恐る恐ると怖々と 心密かの自問ばかり
答えは風の中 ほんとにそう思う そして
多くのことは 気がついたときは遅かったりする
おかあちゃんの泣き笑いの笑顔に久しぶりに出会ったら
いろんなこといっぱい思い出してしまった

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たまたま庭に私と母とふたり
母が
見てみいな 木瓜(ぼけ)がきれいに咲いとるがな
例えば椿 深い緑の葉の中に真っ赤な花 そばまで行けば形がわかる 形がわかって葉と花を判別できる そのあと色が違うことを脳が理解する そんな順序 けれど離れたら緑一色
私はちょいとばかり赤と緑が判りづらい なぜそうなのかその遺伝的なメカニズムを詳しく知るのはもっとあとのこと だけどそのころは私は自分の目のことを知っていた そして母がそのことをひどく気にしていて自分を責めるようなことも口にするもんだから
どうやらこれはおかあちゃんのせい とうっすら感じていた だから目や色の話は母親の前ではしてはいけないと思っていた 困ったそぶりもましてや恨みがましいことも 母親の前では言わない もうそれは絶対に と強く心に思っていた
ほんとはちょっと不便していた 写生のときなどどれにどの絵の具を使えばいいのかさっぱり 身体検査の色覚検査で私だけが数字が読めなかったりみんなが読めないのに私だけ大きな声で得意気に読み上げて恥ずかしかったり あとで知ったことをざっくり要約すれば
その因子は母親が持ち一定の確率で男の子どもに症状が出る・・・遺伝の事だから母親に責任はないけれど母親はやっぱり責任を感じるのだろうし その知識を得てからは尚更におかあちゃんの前では絶対言わないと それはもう死んでも口にしないと決めた
そして あの時の庭
見てみいな 木瓜がきれいに咲いとるがな
私はうっかり ほんとにうっかり
なんでよ 葉っぱばっかりやんか
そう言ったあとで うん? ほんまは咲いてるんか? と思い
歩み寄って形がわかったらほんとに真っ赤な花
しまった と思った 聞こえたやろか 聞こえたやろなと思いながら
無理やり明るく たぶんそれはわざとらしく
ほんまや きれいに咲いとるなぁ
こんな一瞬のやりとりを50年経ってもまざまざと覚えている
こんなに時間が過ぎても忘れられないのが私は辛い
ほんまや きれいやなぁ と振り返ったけれど
うまくごまかせてないことはわかっていた
葉っぱしか見えなかった私 そして そうと知っていながら不用意なことを言った母 子ども心に私は私を責め 母も あぁそうか この子はそうやったなと思ったに違いない
そのときの母親の顔 泣いてるような笑ってるような
すぐに向こうを向いて行ってしまったけれど
あのときのあの一瞬の母親の顔
語彙の乏しいあの頃から50年
今知ってる言葉で表せば
謝罪 後悔 自責 憐憫・・・
もっとある いっぱいある
おそらくそのどれも正しく
どれほど用いても表しきれない
6年前 ひょんないきさつから母親と半年暮らした
あずきは膝の上が大好きだった
娘は嫌な顔ひとつ見せなかった
妻は甲斐甲斐しく世話をしてくれた
私は母親と暮らせてただ嬉しかった



私はこの人のお腹から生まれた 育ててもらった
大事にされた 愛されたという実感が確かにある
笑顔は優しかった 怒ったら怖かった 働き者だった 親父とよく喧嘩をしていた ふたりでしょっちゅうドライブに行ってた 目が覚めて朝刊運びを理由に障子を開けたら ここおいでと布団を上げてくれてクスクスと潜り込んだ母親の胸は温かかった 長男が生まれたときも次男のときも親父とふたり病院へ飛んできてくれた 娘のときはてっきり今度も男の子と誰もが思っていたからびっくりしながらそれは喜んでくれた やがて
私は仕事に妻は育児に追われ自分たちのことでいっぱいいっぱい 親のことどころではなく ようやくそろそろと思ったときに親父が・・・
子どもたちには常々言っている 親のことなんか気にせんでええ 親に返そうなんて思わんでええ 親からしてもらったことを子どもにしてやんなさい ワシらはそれでええ それで充分
それはそう思う 心底思う 子どもの迷惑になるくらいなら姥捨て山に身を投げる けれど私は・・・私はそうはいかない 母親のことをそうは思えない 早くに家を出た気楽な次男のくせして 大した親孝行などなんにもしてこなかったくせして 気持ちだけはそう思う
ときどき
立ち止まって省みる 私はどうだろうか
恩返しとか親孝行とか どうなんだろうかと
都合よく言い訳にして逃げてはいなかったかと
いつになってもいくつになっても
恐る恐ると怖々と 心密かの自問ばかり
答えは風の中 ほんとにそう思う そして
多くのことは 気がついたときは遅かったりする
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